初観音の所感

初観音に所感

数年前、従姉妹から拙書既刊3冊の読後感をいただいた。
「3冊ともすぐ読ませていただきました。目が弱く手に痛みのある私には、手のひらの大きさで持ちやすい厚さ、また字の大きさもほどよく読み手への優しさが伝わってきました。良恒ちゃんのお人柄が感じられてうれしかったです。 早くからふる里を遠く離れた私にとって、この本を読むことがなかったら、良恒ちゃんの人生を知ることもなかったでしょう。 2作目の『田舎坊主の愛別離苦』のなかにあなたが憲法九条を守ること、平和の大切さを書いてくれていました。私は少し絵を描いているのですが『美術九条の会』また『平和美術展』というのがあります。微力ですが私も平和を守ることの大切さを絵の恩師から教えられました。世界で唯一原子爆弾の被爆国として大きな犠牲を払って終戦に至った国です。この犠牲のもとに得られた平和憲法や憲法九条は、戦争を二度と起こさないためにも守るべきと私も思います」と。(再掲)

その後何度となく電話で話し合った。
 彼女の肩書きはー武蔵野美術大学卒業、日本美術会会員、美術家平和会議会員・・・等々、立派な美術家なのです。
 その彼女は難病の悪性関節リウマチの影響で腰痛がひどく、足指の変形で靴が履けず、目の炎症も悪化し見えなくなる前の要手術状態だったのです。
さらに病弱の夫と母親の介護と看病の日々、周囲からはとても絵が描ける状態に見えないなか、それでも「絵を通して平和を」の信念から描き続けていたのです。
 私は『田舎坊主の愛別離苦』の挿絵を描いている女性が、従姉妹と同病の自己免疫疾患女性患者であることをメモに添えて彼女の絵本を送りました。

その従姉妹が昨年暮れ亡くなったことを弟さんから知らされたのです。
急逝だったことを聞いて驚くとともに、彼女の人生を思うと胸が詰まされた。

 今年松の内も明けたころ、その従姉妹の姉から電話があった。
 妹の死の報告とともに長い電話になった。
 私の電話番号は知らないはずなのに、どうして知ったのか聞いて驚いた。生前に妹から私の最新刊「田舎坊主の闘病日記」を読むことを薦められ、そのとき電話番号を教えてもらったそうだ。
 その姉は両親の猛反対を押し切って両腕欠損の病弱男性と結婚し、その後声を潜めて生きてきた。
 私の本を読んではじめて私の半生を知り、話しやすかったのだろうか、難病の妹の死、その妹に母親の介護をしてもらった悔悟、ひとときも離れることができなかった両腕の無い病弱の夫の死、それぞれが必死に生きてきたことーそんな中でも両親が常に話した「感謝して生きる」という教え等々、堰をきったように話してくれた。
 そして最後に、私が作った「仏前のおつとめ」奥津城の部分ー
  ・そのままで結構ですと喜びましょう
  ・人、世のために奉仕しましょう
  ・有り難い、有り難いと腹から唱えましょう
をいつも暗唱していると言って、ありがとうと電話を切った。

 これらの電話がある少し前ー
 私の大切な知り合いで、私の妻が亡くなるまでとてもお世話になった方ご自身が辛い難病の診断を受けました。施設などにいる難病患者に奉仕し続けた方なのに、です。
 病状進行も早く、坊主であり難病患者会に長年携わっていながら何もできず、私は唯々無力感にさいなまれた。
   *
 年末年始、「生きる」ということを考えさせられました。

 長く生きることは大切なことでしょう。
でも長さではなく、
何をしてきたのか(奉仕)ー
どう生きているのか(感謝)ー
ということも大切だと思うのです。

これからも観音さま、お不動さま、お薬師さまにー
「難病患者のお心に寄り添って下さい」と祈り続けていこうと思います。

私にはこれぐらいのことしかできません。
合掌

2018年にギャラリー麦で開催された従姉妹の個展
仏前のおつとめの表紙と奥津城
(断食修行で教わったことです)
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