美容院に出かけられない妻が長い間お世話になった山本清子さんが亡くなったとの知らせ。
若い頃から美容師として活躍し、その熟練した技術を多くの若い美容師たちに伝授し、あるときには沖縄県まで指導研修に出張されることもありました。
動ける範囲で個人的に訪問美容を始められると、その優しいお人柄と技術の丁寧さは多くの方に喜ばれました。
やがて主に施設や病院、患者さんの自宅などに訪問出張するようになりました。
山本さんは、
「きれいになってもらって元気を出してほしいんです」
「喜んでくれるだけで幸せです」
「私の方こそ患者さんたちから元気をいただいています」
それはまさにボランティア精神、奉仕の精神そのものでした。
姿勢を安定できない妻が毛染めやカットなどをしていただくときには、美容を施す時間や、洗髪姿勢が辛くないように種々工夫し、損得を考えず手づくりされた小物を持参してくれ、つねに患者の立場に立って髪を整えてくれました。
私が「かかった費用を教えてください」と聞いても、
「いいんです。させてもらえることが幸せなんです」
「喜んでいただけたらうれしいんです」と、
最低限の美容費用だけしか受け取ってくれませんでした。
さらには約30㎞もの長距離を往復する交通費も取ってくれないのです。
「私はここに来させていただいて奥さんの髪を触らせてもらって、帰りには大好きな道の駅に寄ったりできるのがうれしいんです」と。。。
妻が亡くなってからは自坊で開催している土寺小屋にも、毎月の護摩焚きにも顔を出してくださり、熱心に不動寺に足を運んでくれました。
土寺小屋全員で高野山に遠足したときも、新しい高野山を発見できたととても喜んでくれたことを忘れることができません。
そして約1年前ー
山本さんから「ちょっと言葉が話しにくくなった」と相談を受けました。
和医大の神経内科受診をすすめました。
3回ほどの検査入院で萎縮性の神経難病と診断されたのです。
難病患者さんなどのために奉仕されていた方が自ら難病の診断を受けるという、ほんとうに辛い報告でした。
私は何度か自宅を訪問し固縮した手を握りさすりながら、
「こんなことしかできなくてごめんね」
そういうと、
「先生、うれしいです、うれしいです」と、出しにくい言葉で返してくれました。
亡くなる3日ほど前、自宅に伺っても応答はなく近所の方から、
「4月から入院されていて、この時期ご家族以外は会えないそうです」と教えてくれ心残りでしたが帰宅しました。
先生のFB楽しみですといつもFBにコメントを入れてくれ、
料理をアップすれば「料理本出してください」
寺院巡りをアップすれば「一緒にお参りさせてもらいました、幸せです」
それがやがてスタンプだけになり、
いいねだけになり、
ついにスマホを握れなくなりました。
そして施餓鬼の日に息子さんから訃報が入ったのです。
施餓鬼の朝、麻生津大橋にかかった虹はー
もう一度不動寺へとの山本清子さんの魂の架け橋だったように思うのです。
合掌
九拝


この虹に乗って不動寺に来てくれたのだと思います。魂の虹です。

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ちなみにこの日には恩師、亀岡弘昭先生の訃報も・・・。
私が高野山で小坊主をしていたとき、
寂しいときも苦しいときも先生に守られて高校生活を送ることができました。
やんちゃ坊主の私でしたが、
高校を卒業するときには亀岡校長先生のおかげで宗務総長賞を授与され、
高野山大学は推薦奨学生という計らいをしていただいた特別な理解者でもありました。
今年5月、恩師の惣福寺を訪ね55年ぶりに再会できたのが最期となりました。
桜の時期の来訪を待っていると話してくれたのに。。。
心からご冥福をお祈りします。
合掌
九拝
