紀の国わかやま文化祭 華岡青洲の妻

紀の国わかやま文化祭2021で
劇団青洲がオープニングの一つとして「華岡青洲の妻」を公演しました。
 
結成25年の記念も兼ねての公演でした。
 
みんながんばってよく出来ていました。
 
 
舞台の写真はー

・青洲の母と妻加恵が自分を人体実験に使ってと言い合う場面

・母よりも強い薬を処方された加恵が目が見えないと訴える場面

・団員でのフィナーレ

集合写真はー

「この子たちは文化体験で来日したブラジルの子たちです。写真に入って下さい」と言われ、
撮ってくれたものです。
 
    *
 
紀の国わかやま文化祭2021はー
11月21日まで多彩なイベントが開催されます。
 
 
自分を人体実験に使ってと言い合う加恵と母を青洲がなだめる場面
加恵が目が見えないと訴える場面。このときはじめて、お母さんは飲まされた薬量が極めて薄かったことを知るんです。
フィナーレ
文化体験で来日しているブラジルの子たちと。。。

次女えりの三十七回忌祥当日

10月30日ー
次女 えりの三十七回忌祥当日
   
生後から約5年の闘病を経て、病院でー
「みず、のみたい・・・」と言って息を引き取ったのが昭和60年10月30日。
子どもの亡きがらを抱いて病院の玄関から出ようとしたとき、
関係者からー
「裏口から出てください」と言われた。
そのとき初めて、病院で亡くなったら玄関から出られないことを知った。
家に着いたら抱いた手がしびれていたことをいまも忘れられない。
  
子ども含め、以来5人を送りました。
      
    
ほんとうにいろいろなことがありました。
   

同居家族がいなくなってから私は西国三十三所霊場、西国四十九薬師霊場を巡拝成満し、
四国八十八ヶ所霊場も成満まで残すところ4ヶ寺となりました。
   
昭和41年、歌舞伎役者市川団蔵はー
『父母の五十回忌を済ませしのちは、無縁の人をとむらいにけり』との遺書を残し、
四国からの帰りの船から身を投げました。
   
私は身投げこそしませんが、
坊主として難病と深く関わってきた人生です。

多くの人が古来すがってきた諸仏に「難病患者に寄り添い下さい」との願いを込め、
自坊のおたすけ地蔵と護摩焚きとともに、祈願参拝を続けたいと思っています。
   
幸い長女純令が尼僧となり、旦那さんも高野山で修行を終え、
いま副住職辻和道として勤めてくれています。
本当に有り難いことです。
 
       
そんな中、東海四十九薬師巡拝を始めています。
いま私にできるのは祈ることだけですから。   
      
いまそれができることに感謝しかありません。
  
南無大師遍照金剛
合掌
    
令和3年10月30日
不動坊 良恒

 

おたすけ地蔵

10月の護摩焚き法要

令和3年10月28日
  
小春日和のなか、皆さまの安寧と疫病退散を祈願し、

無事護摩焚き法要無魔勤修致しました。

参拝者皆さまには大きな声でお唱えいただきました。



瑞宝山不動寺

南無大日大聖不動明王

合掌
 
 
ちょっといっぷく

高岡山瑞龍寺 国宝巡拝

高岡山瑞龍寺 高岡大仏 五箇山合掌造りの里 帰り途中で五箇山合掌造りの里を散策することができました。ここでも秋を待つ穏やかな風景に癒やされてきました。 令和3年10月14日不動坊良恒 拝

お世話になった方がまた逝きました

四国巡拝中に「よしつね君? ○○です」と電話が入りました。
聞き覚えがない男性の声なので「どちら様ですか?」と聞き直すと、
「○○です、妻が亡くなりました。もしものことがあれば、よしつね君にお願いしてと常々話していたので・・・」
と言うのです。

奥様は当初から私を「よしつね君」とよんでいました。
ご主人がかけてきた奥様の携帯電話にも「よしつね君」で登録していたのでしょう。
ご主人からそうよばれたことはなかったので、
「よしつね君? ○○です」の電話に驚いた次第です。

さらに奥様が亡くなったとの知らせに驚き、
詳細を聞いた上で葬儀を承りました。

   *

亡くなった奥様とは35年以上前、
私が「胆道閉鎖症の子どもを守る会」の和歌山県支部長をしていたとき、
檀家さんの法事でお会いし、法話で亡くなった子どもの病気や難病についてお話しをしました。
その際、なにか協力したいと申し出があったのです。

それからしばらくして彼女はあるお店をオープンし、
開店当初からお店のカウンターに「難病の子どもたちに愛の手を」と手書きした募金箱を設置してくれました。
これは閉店するまで約15年間置いてくれたのです。
支部の運営費や私が会議のたび上京するための交通費などほんとうに助かりました。

彼女はご自分の水子を熱心に供養されていて、
心の中には少なからずこのことが私への協力の一つの要因としてあったように思います。

   *

一方でお盆に水子供養としてお参りしてほしいとお願いされ、これも35年以上続いています。

今年のお盆前のことですー
毎年彼女宅へのお盆のお参りは日程も時間も決まっているので、
今まで確認されることはなかったのですが、

「よしつね君、今年いつ参ってくれる?」と約10年ぶりに電話が来たのです。
ここ何年かは私に代わって副住職がお参りしていました。

今から考えてみると、その電話はお別れの電話だったのかもしれません。

長いご無沙汰で元気なお顔も拝見しお話しもできていなかったことが心残りとなりました。
  
  *  
   
彼女は東洋欄をこよなく愛し、各地の展示会に出品などして季節には全国を巡っていました。

私は彼女にー

豊徳照蘭信女 のお戒名を贈りました。
  
遺影はたくさんの蘭に囲まれたお写真で、
お別れの棺の中にもたくさんの蘭が添えられていました。
   
ただ多くのご遺族から故人らしい素晴らしいお戒名だと喜んでいただけたのが、
ささやかな恩返しになったような気がしました。  
 
今年は大切な方、お世話になった方とのお別れが続きました。
    
唯々黄泉が安らかならんことを願うのみです。
    
   
南無大師遍照金剛

合掌
九拝