今年の初不動は護摩焚き法要だけになり法話もできなかったのですが、ある方から、今年も法話を聞きたかったとお話がありました。
なのでこの場でWEB法話させていただきます。
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ある老僧の言葉ー
私が坊主になりたくないと思いながらも仕方なく小坊主していたころ、ある老僧に「お経って何ですか?」と聞いたことがあります。
老僧は「お経は祈りじゃ」と即答してくれました。さらに「お経は特効薬でも神医者でもない。お経が祈りである限り祈っているときに出る言葉や思いがお経そのものじゃ」と。
坊主になってから多くの僧侶の方々と関わってきたけれど、なかには形や正確さだけに囚われている方もおられました。
とりわけお付き合いしたくないと思ったのは、いわゆる「拝み屋さん」もどき坊さんです。
老僧が健在なら「そんな坊主、髪を剃って心を剃らずじゃなあ」と笑っておられると思います。
コロナ禍のいまー
多くの神社仏閣は「祈り」の具現化として建てられてきました。
なかでも薬師如来を本尊とする寺院は多くは「流行病(はやりやまい)を封じて下さい」との祈りを込めて建てられました。
ちなみに祇園祭など有名なお祭りも同様の趣旨で始まったものがたくさんあります。治療薬もないコロナ禍のいま、かつての祈りの形は寺院建立からワクチン製造に変わっていますが、「流行病(はやりやまい)を封じて下さい」との祈りは今も昔も変わることはないでしょう。
さてー
私たちは往々にして「病気を治してくれる霊験あらたかなお寺」などといいます。
でもそれはあやまりです。
全国各地にある薬師如来をお祀りする寺院は、そのお寺そのものが祈り続けているのです。
薬師如来さまが祈り続けているのです。
もしそこにお参りして病気が治ったのなら、それはあなたの祈りがあらたかであったからこそ祈りの力がお経となり治ったのでしょう。
かつての老僧はこういうことを私に伝えたかったのではないでしょうか。
祈り続けるー
私にとって大切な方が昨年難病の診断を受けました。
亡妻も私もとてもお世話になった方です。
進行がはやく両手が固縮しPEGもストマも設置されています。
28日に護摩祈祷のお札を持参すると両手固縮のため両腕にそのお札を抱きしめられました。
私は固まった両手をさすりながら「ごめんな、祈ることぐらいしかできず、こんなことしかできずごめんな」と詰まる思いを抑え、ベッドに向かう後ろ姿を見送って帰宅しました。
難病と関わって48年にもなるのに、なんの力にもなれない無力感にさいなまれています。
それでもー
自坊大日大聖不動明王ご宝前で祈り、各地の薬師瑠璃光如来ご宝前での祈りを続けていこうと思います。
私にはそれしかできないのですから・・・。
それが私の使命なのですから・・・。
法話というより所感となりました。悪しからず。。。
令和3年1月30日
不動坊 良恒
合掌
